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知床半島遊覧船事故に見る、結果論ではないプロセス管理の重要性
痛ましい事故となった知床半島遊覧船。私も昔、知床半島を遊覧船でめぐる旅行に行ったことがあり、なおさら気になっていました。
今回はこの事故から、私がすべての仕事において最重要だと思う「結果論で評価するのではなく、プロセス(過程)としての正しさ」を考えてみたいと思います。
私は、今回の事故で運航会社の社長が記者会見で発言したと報道されている、以下のコメントに着目しています。
「結果として、安全管理は行き届いていなかったということになる」
「(出航は)いまとなれば間違っていたと思っている」
この発言の背景にあるのは、「結果として悪いことが起きたのだから、このやり方は間違っていた」という認識。言葉を返すと「結果として悪いことが起こらなければ、このやり方は正しい」という意味になります。
果たしてそうなのでしょうか。
◢◤◢◤ プロセス管理の重要性 ◢◤◢◤
「結果論で評価することの是非」を考えるために、事例を見てみましょう。
プロジェクトマネジメントにおける古典となったトム・デマルコ氏の書籍から、今回の事故と同様のケースと思われる個所を当方が要約して引用してみます。
(Tom DeMarco & Timothy Lister, 熊とワルツを-リスクを愉しむプロジェクト管理, 日経BP社, 2003年)
ーーーーーーーー以下筆者要約ーーーーーーーーーー
書籍中では、クリフォードという教授が、演説で『信念の倫理』という論文を演説した時の状況を描いています。
クリフォードは、定員いっぱいの乗客を乗せて出航しようとする移民船の船主を例に挙げて演説を始めました。
船主は、船が古くて状態が悪いことを心配していました。もう一度無事に航海できるか疑問だとも考えていました。
しかし、船主はもう一度航海しても大丈夫だと自分に思い込ませることに腐心します。
「今までも何度も嵐にさらされたが無事だった。もう一度航海できない理由はない」
そして船は出航し、沈没してしまいました。
クリフォードはこの船主についての考えを以下のように示しました。
「乗客の死について船主に責任がある。確かに船主は誠心誠意、船が安全であると信じていた。
しかし、船主は目の前にある証拠を信じる権利がなかった。 最後には、絶対安全だという確信に至ったが、それは調査によって誠実に得られた結果ではない」
その後、状況を変えてこう問いかけます。
「仮に、今回は沈没せず、何の問題もなく航海できたとしたら船主に罪はないのか?」
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クリフォードの答えはこうです。
「そんなことはない。ひとたび行動すれば、それは永久に間違っているか正しいかのどちらかだ。
船の安全を信じたかどうか、ではなく、何を持って信じるに至ったかが重要なのだ」
ーーーーーーーー筆者要約ここまでーーーーーーーー
◢◤◢◤ 得られる教訓 ◢◤◢◤
どんな仕事も、結果良ければすべてよし、ではない。
結果を出すためのプロセス(行動)は、その時点の状況・情報・資源・知識などを踏まえて最適だと考えられるものを選択することができます。
そしてその選択には、正しい・誤り、が存在します。
もちろん絶対的な正しさなどはありません。しかし、「妥当なプロセス」を繰り返さなければ、結果も妥当ではなくなるし、品質も安定しません。ましてやリスク管理など絶対にできないでしょう。
私は職業柄経営コンサルタントとして、「結果的に売上が上がった」、「結果的にクライアントが満足した」、といったことが起きた場合は、反省するようにしています。
それは私が意図したものではないからです。でもこれは「意図しない成功」であるから、その原因を分析し掘り下げることで、次回には「自分が意図的に再現できるノウハウ」にしていくこともできます。
このように、明確に意図したプロセスと、その結果を両方振り返り、内省しない限り、偶然に人生をゆだねることになってしまうのではないでしょうか。
冒頭の事故についても、同様のことが言えます。
あらゆる仕事は連続したプロセスを組み合わせて成り立っています。1つ1つのプロセスを実行するためには、知識・スキルが必要で、プロセスを効率的に実行するためにツール(道具)を準備できます。こうしたものの総合が業務マニュアルであり、かつ人間の英知であり、マネジメント体系なのです。
このような考え方で仕事を組み立てない限り、冒頭のような事故は必ず繰り返されるでしょう。
マネジメントの大家ドラッカーもこう言っています。
「繰り返し起こる危機は、ずさんさと怠慢の症候の1つである。
よくマネジメントされた組織は退屈な組織である。
そのような組織で真に劇的なことは、昨日の尻ぬぐいのためのカラ騒ぎではない。
それは、明日をつくるための意思決定である」
(引用:ピーター・F・ドラッカー, 経営者の条件, ダイヤモンド社, 1996年)
昨日の尻ぬぐいのためのカラ騒ぎなどやめて、明日を創る意思決定をしましょう。
それは、再発防止のためのマニュアル作りや未来に向かって描く戦略作りなのです。
<筆者>
合同会社クリエイティブファースト代表社員社長。宮城県よろず支援拠点チーフコーディネーター。
経営革新や商品開発、広報など売上拡大に直結する具体的で斬新な提案が持ち味。
個人のミッションステートメントは、“あなたの「現状を変えたい」思いを確実に形にし、未来と感動を創り出す変革の経営コンサルタント”。現状からの変革を通じ、相談者の未来と感動を共創することこそが、自身のミッションであり最大の喜びでもある。
※「よろず支援拠点のお仕事」として佐藤のインタビュー記事が掲載されています。
https://yorozu.smrj.go.jp/recruit/voice_miyagi/
誰でもできる、どんな仕事にも集中できる仕事術とは?
■どんな仕事にも集中するための方法はあるのか?
仕事をしているときのご自身の「感情」に思いを寄せたことはありますか?
わたしは、仕事において集中してワクワクしながらフロー状態を経験できることもあれば、やっつけなければならない義務感から、辛いと思いながらこなす仕事もあります。
仕事をしている時、人は自分ではあまり意識はしていないと思いますが、実際は「感情」が大きく揺れ動いているはずです。そして、その「感情」によって、自分のモチベーションも揺れ動いているように思います。
私は、いわゆる定型業務や、同じような仕事を繰り返すことに極端に苦痛を感じます(笑)。もちろん、ミスなくこなすことはできるのですが、新しさや自分の創意工夫が入らないような仕事になればなるほどその仕事に対する興味を失ってしまう度合いが、かなり大きいのです。
そんな困った自分は、「どうやったら興味を持てない仕事にも集中できるようになるのか」という、これまた世間一般の大人たちがあまり考えそうにない本質的な問いを、ずっと自分に投げかけてきました。ふつうは「仕事なんてそんなもんだよ」と割り切るのでしょうが、私はこうした本質的な答えを探す悪い?クセがあるのです(笑)。
そしてそれは、単に「時間を決めて取り組む」とか、「仕事が終わった後のご褒美を用意する」などという、外的要因による動機づけではなく、自分の心の中から内的に仕事に興味を持ち集中して取り組むための方法を探していたのです。
なぜなら、内的プロセスを身につけなければ、結局はその日の天気や気分、職場環境などといった外的要因によって自分の仕事のパフォーマンスが左右されてしまうからです。仕事におけるパフォーマンス(品質)を一定に保つには、自分の内的要因によって仕事への集中を自ら作り出すプロセスが必要なのです。これは品質管理の考え方と同じです。
そんな本質的で答えが無いような問いを長い年月自問してきた結果、おぼろげながらですが、ある程度はどんな仕事にも興味を持ち、集中して取り組むためのスキルを後天的に開発できたように思います。
さて今日は、そんな「仕事に集中するための内的プロセス」について、私の持論を述べたいと思います。みなさまも頭の体操、息抜きに、是非ともお付き合いくださいませ!
自己の存在価値 -「ありのままの自分になる」のは是か非か-
■自己の存在価値 -「ありのままの自分になる」のは是か非か-
最近いろいろと仕事環境も変わり、以前よりもやりたかったことを素直に実行できる環境にいると感じています。
「やりたいと思ったことをやれることが一番の自由である」と言った人がいましたが、確かにそうだな、と実感している次第です。
ただし、大昔から自分の中にあり、そして今も時折考えてしまう課題もあります。
それは、
仕事面において、結局自分は何がしたいのか。もしくは自分の本来的な存在意義は何か。これが時々ぶれてしまう。
ということです。
自分で言うのもなんですが、私はどちらかと言えば器用貧乏、よく言えばオールマイティのタイプで、なんでもこなせるけども、結局「これだ」という専門性がいまいち見当たらないようにも思います。
(※などと言うと、一部の方からは「贅沢な悩みだ」など突っ込まれることもあるのですが、ただ自分にとっては結構深刻な課題なので、しょうがないのです)
もちろん、やりたい方向性はあって、その方向には進んでいます。しかし年齢を重ねるにつれ、何か人生に対するもっと大きな挑戦がしたいと思うことも多くなってきました。
私は仕事人間とまでは言わないですが、仕事が自分を表現する手段の8割~9割以上を占めている人間です。どんな仕事をするのか、どんな仕事に命を削っていくのか、それはそのまま「人生をどのように生きるのか」に直結しています。
こういった課題を解決すべく、以前からキャリア論やモチベーション論などもかなり研究し、自分に適用することで、悩みながらも前に進む事が出来ていたと思います。しかし、いつまでたっても前述の課題はスッキリとは解決しないのです。
しかし最近、ある思想を学ぶことで、もしかしたらこの課題が解決しそうな気がしてきたのです。
それは、「構造主義」です。
さて、「ありのままの自分」を取り戻す旅に一緒に出てみましょう。ちょっとだけお付き合い頂けますと幸いです。これを機にご自身の思いも振り返ってみてはいかがでしょうか。
「雑談」で知るコミュニケーションの本質とは?
■雑談という社交性スキルはなぜ必要なのか?
雑談 - 案外これを不得意とする人は実は割と多いのではないかと思います。
かく言う私もその1人です。
お客さんなどの仕事関係で、あまり顔なじみでない方(とくに役職の高い方)と、突然エレベータで2人きり・・・
ちょっと離れている面識のあまりない近所の方と、バス停でばったり・・・
突然何を話せばいいのか分からないですが、会話がない空気感も避けたいし、少々こまった気分になってしまいます。
誰とでも「用事」や「用件」があれば、問題なく会話もできるし意思疎通もできます。
しかし「用件」のないシーンで、どうコミュニケーションすればいいのかが分からない時ってありませんか?
そもそも「雑談」とか「コミュニケーション」って何なんだろうか。
できたに越したことはないけど、出来るべきなのか?出来なくともいいのか?
そもそも「雑談」って必要なものなのか?
明治大学文学部教授 斎藤 孝氏の「雑談力が上がる話し方」にはこう書かれています。
雑談から透けて見えるのは、その人の育ちの良さ。もちろん、いわゆる育ちが良いというのは、家柄がよいということではなく、人間関係に恵まれて明るく育っているという意味です。
(雑談力が上がる話し方, 斎藤孝,ダイヤモンド社)
そんなこと言われても、気付いたころには他人と比べて「社交性が低い」状態になっていたのだし、どうしましょう、という感じです。
同著には、
・雑談に意味や目的はない!急に始まり、急に終わって良い会話だ
・雑談は「あいさつ+α」で30秒でよい
・雑談にただ一つルールがあるとすれば、別れ際の後味の悪さは回避せよ
・相手にどう思われるか心配・恥ずかしいという思いは、突き詰めれば自意識過剰
などなど「雑談」を行う上での戦術的方法が書かれており、大変参考になりました。私も1人のビジネスパーソンとして、そして良識のある大人として、この部分は改善せねばと、意識して改善してきました。
ただ、そんな「雑談」はなぜ存在するのか?といった、世間一般の良き大人たちは考えも感じもしない疑問がずっと頭にあったことで、ふと、「雑談」つまり「意味のあまりないコミュニケーション」の本質がなんとなくわかってきた気がしてきたのです。
では、雑談から見るコミュニケーションの本質について探っていきましょう。
信頼を得るための本質的な方法は?
■“信頼を得る”とはどういうことなのか?
経営コンサルティングに従事しているとよく言われるのが、
お客様との信頼関係を構築しないと支援などできない
ということです。これは他の業種にも通じる言葉ではないかと思います。
そこまでは全員が納得でしょうが、では、信頼関係を構築するために具体的にどんなことをすればよいのでしょうか?
もちろん、私もカウンセリング理論の勉強と実践を行っておりますので、ラポールの形成やミラーリングなど一通りのスキルは保有しているつもりです。
ここでは、そういったテクニカルなことではなく、根本的に“信頼”をどのように構築するのか、ということを考えてみます。
皆様も後輩や部下に「お客様と信頼関係を構築しろ」と言いっぱなしになっていませんでしょうか?
信頼関係を構築する方法と、その優先順位を、自分の考えではありますが述べてみたいと思います。
今回も皆様への「内省し、自己を見つめなおすための話題提供」になれば幸いです。