■自己の存在価値 -「ありのままの自分になる」のは是か非か-
最近いろいろと仕事環境も変わり、以前よりもやりたかったことを素直に実行できる環境にいると感じています。
「やりたいと思ったことをやれることが一番の自由である」と言った人がいましたが、確かにそうだな、と実感している次第です。
ただし、大昔から自分の中にあり、そして今も時折考えてしまう課題もあります。
それは、
仕事面において、結局自分は何がしたいのか。もしくは自分の本来的な存在意義は何か。これが時々ぶれてしまう。
ということです。
自分で言うのもなんですが、私はどちらかと言えば器用貧乏、よく言えばオールマイティのタイプで、なんでもこなせるけども、結局「これだ」という専門性がいまいち見当たらないようにも思います。
(※などと言うと、一部の方からは「贅沢な悩みだ」など突っ込まれることもあるのですが、ただ自分にとっては結構深刻な課題なので、しょうがないのです)
もちろん、やりたい方向性はあって、その方向には進んでいます。しかし年齢を重ねるにつれ、何か人生に対するもっと大きな挑戦がしたいと思うことも多くなってきました。
私は仕事人間とまでは言わないですが、仕事が自分を表現する手段の8割~9割以上を占めている人間です。どんな仕事をするのか、どんな仕事に命を削っていくのか、それはそのまま「人生をどのように生きるのか」に直結しています。
こういった課題を解決すべく、以前からキャリア論やモチベーション論などもかなり研究し、自分に適用することで、悩みながらも前に進む事が出来ていたと思います。しかし、いつまでたっても前述の課題はスッキリとは解決しないのです。
しかし最近、ある思想を学ぶことで、もしかしたらこの課題が解決しそうな気がしてきたのです。
それは、「構造主義」です。
さて、「ありのままの自分」を取り戻す旅に一緒に出てみましょう。ちょっとだけお付き合い頂けますと幸いです。これを機にご自身の思いも振り返ってみてはいかがでしょうか。
■「ありのままの」自分になるのは楽なのか
以前大ヒットした某ディズニーアニメーションの主題歌にあるように、「ありのままの自分」になれたら、さぞかし楽に生きれるのではないかと思っていました。
例えば、自分はスポーツ選手になりたかったのだ、教師になりたかったのだ、というように、自分の進むべき道が明確にあり、それにまい進できれば、少なくとも当方のような悩みはありません。
私は、目標を達成することは難しくなく、むしろ本当にやりたいと心からコミットできる目標を得ることのほうが難しいと思います。コミットできる目標(目的)があれば、達成したも同然なのです。
ただ、よくよく考えてみると「ありのままの自分」になる、というのは、本来あるべき自分を知っている、ということになります。自分が何者かを知っているからこそ、そこに回帰しようという考えです。これは「自分が何者であるのかを知っている」という人間観です。自分が本来は何者であるのかを知っているからこそ、その自分を自然に表現しよう、という発想です。
確固たる自己が中心にあるという人間観で、これは「天動説型」および「絶対的」人間観です。
天動説型人間観は、絶対的な自己があり、それを見つけ、それを表現することを志向します。しかし私には、そのあるべきはずの「絶対的な自己」が見当たらないように思うのです。
私も「ありのままの自分」になることを志向したい反面、「自分が何者であるのか」が自分の中に確固として存在しない、という状態のため、結局はいつまでもありのままの自分になれないという二律背反を生んでいたのです。
これが、自分の中に「確固たる自己」を求める人間が陥る矛盾でした。
■では「地動説型」、「相対的」人間観はあるのか?
あります。これが構造主義です。
構造主義はざっくり意訳すると、次のような考え方です。
人間は、時代や地域、環境などのなんらかの社会構造に属しており、その構造の範囲によって、ものの考え方や感じ方が決定してくる。自分が考えるほど主体的にものを考えているわけではない。
これを自己に置き換えると、
絶対的な人間性とか、絶対的な自己というものは存在しない。
我々は「自分がほんとうはどんな存在なのか」を、自分では定義できない。
自分が作り出したものを見て、事後的に教えられるだけである。
という解釈になります。
つまり、自己という確固たるものがあり、それが周囲と協調し、仕事をしたりコミュニケーションしたりして自己実現を達成するのではないというのです。
単に人は動物として生まれ、その社会構造の枠組みの中で育つが、その動物的な人が、周囲と協調し仕事などを通じて生産活動をします。その自分の産み出したものを事後的に振り返ることで、自分が何者であったのかを後から知るというのです。
これは、確固たる自己はなく、宙ぶらりんの中、何か活動をしたその軌跡が自分を意味付けする、という、地動説的な人間観です。
■「ありのままの自分」は動物と変わりない?
構造主義は、自己の根拠は「存在」にはなく、すべて「行動」にある、と説きます。
単に存在し、本能に従って生きるなら、それは動物と変わりない、というのです。
能動的に行動し、その結果のみが自己を自己たらしめるのであり、行動なくして自己の確立なし、ということを主張します。
動物は、「所与としての自己」、あるがままのおのれと、「あるべきおのれ」とのあいだの乖離感に苦しむということがありません。
大切なのは「自分のありのままにある」に満足することではなく、「命がけの跳躍」を試みて、「自分がそうありたいと願うものになること」である。(出典:内田 樹, 寝ながら学べる構造主義,文芸春秋, 2004年)
単に存在している事に自己の基盤を置くものは動物であり、ありたいと願うものになるべく、悩み、そして行動した者のみが、事後的に何者であったのかを知ることになるのです。
単に生きて死ぬだけなら動物と同じだ、という主張は強烈ではありますが、これは福沢諭吉も「学問のすすめ」の中で同様のことを言っています。
男子が成長して、ようやく家族や周囲に人の世話にならなくて済むようになり、それなりに衣食して他人にも義理を欠くことなく、身もおさまって節約もし、長期的な人生プランをこまごまと気にかけ、とにもかくにも一軒の家を守るものがあれば「独立の生活をしている」といって並み以上の働きをした立派な人間と言う。
ただ、一身の衣食住を得てこれに満足するべきだ、とするならば、人間の生涯はただ生まれて死ぬだけだ。
(出典:福沢諭吉(著)/齋藤孝(訳), 現代語訳 学問のすすめ, ちくま新書,2009年)
私は個人的に福沢諭吉のこの考え方に賛同しているので、構造主義もけっこうすんなりと入ってきたかもしれません。
■自己を求めて
構造主義は現代思想の基礎をなしており、現代のものの考え方は、全て構造主義の範囲内といえるそうです。
例えば、AさんとBさんは生まれ育った環境が違うから、考え方も違うよね、といった主張は、明らかに構造主義に則っています。
近年良く聞くダイバーシティ、多様性などは、構造主義のたまものなのでしょう。
このような構造主義で自己を考えると、今まで「自分の中に答えがある」と思って探し続けていても、結局見つからない理由が説明できます。
自分がまずはどうなりたいか、確固たるものは存在しないので、今現在の考えや志向に基づいて大まかに方向性を決めたら、あとは行動あるのみ、ということです。
ありのままの自分探しはやめて、ありたいと思う自分への挑戦を続けることこそが、確固たる自己を構築することにつながるとしたら、これほど楽なことはないでしょう。
なぜなら、今現在どうしたらいいのか悩んでいる、そのことこそが、動物ではなく人間であることの証であり、自己の確立につながっていると言うのですから。
<筆者紹介>
佐藤 創(さとう そう)。合同会社クリエイティブファースト代表。経営コンサルタント。中小企業診断士、高度情報処理技術者、キャリアコンサルタント。
「変化を求め明日を企てる事業者様の良き参謀役」として、ビジョン実現に向け経営者と伴走しながら共に汗をかく、ハンズオンでの支援を身上とする。独自のビジネスモデル分析による経営改善手法が好評。
得意な支援ジャンルは、新規事業開発・事業戦略による売上拡大、IT導入・活用による生産性向上および販路開拓、金融支援(リスケ等)を伴う経営改善・事業再生。