■人はだれしも心を病む生き物なのだ
先日、テレビでNHKの「心の時代」が流れていました。
この番組は宗教家の方々がいろいろなお話をするというもので、NHKのサイトには、
どうにもならない壁にぶつかったとき、絶望の淵にたたされたとき・・・どう生きる道を見いだすのか。先人たちの知恵や体験に、じっくりと耳を傾ける番組です。
と書かれています。
私は過去にこの番組を見たこともないのですが、テレビのリモコンが遠くにあったのと、家事をしていたのでチャンネルを変えるのも面倒なので、そのままこの番組を流しっぱなしにしていました。
ただ、途中から番組内でお話をしている宗教家の話の内容に段々と興味を覚えるようになり、番組の後半くらいからじっと聞き入ってしまったのです。
なぜこんなに興味を覚えたのか、というと、ちょうど自分が抱える悩み?とまではいかなくとも、そういった「心に引っかかっている何か」への答えを語っていたからでした。
この答えを聞いたとき、自然に「なるほどね!」と独り言をつぶやいてしまうほど、自分では納得をしてしまったのです。
そこには、心を病んだ人がどういうプロセスを経て「タフさ」を身に付けていくのか、その真理が語られているように感じました。
■仏教は救いになるのか?
テレビの宗教家は、釈 徹宗(しゃく てっしゅう)さんという方で、お寺の住職をしています。
釈さんは、自分が子供だった頃に、お寺に毎日のように念仏を唱えに来ていた、あるおばあさんがいた、という話をします。
で、釈さんが大人になってから、そのおばあさんのことを思い返すことがあったので、おばあさんのいた家にたずねに行ったそうです(おばあさんはすでに亡くなっていたので、そのお孫さんに会いに行ったようです)。
そしたら、そのおばあさんは、あれほど熱心に念仏を唱えていたにも関わらず、家族には「もう念仏は唱えない。説法を聞けば聞くほど苦しくなる」と言っていた時期があったそうなのです。
釈さんが言うには、おばあさん自身に苦しい出来事があって、そこから救われるために仏教の説法を聞いたり、念仏を唱えたりしていたのだろうが、実際は説法を聞けば聞くほど、自分の中の悪い心が見えてしまい、逆にそれがつらくなってくることがあるのだそうです。
そこで番組のインタビュアーが鋭い指摘をします。
現実から救われたい、と思って仏教を始めたのに、それによって自分の中の悪い心が見えてしまい、念仏を唱えるほど苦しくなる、という状況になるということがあった場合、仏教はその状態から抜け出す、苦しみをいやす、そういった救いになり得るのでしょうか?
この問に対する釈さんの答えが、私の「なるほど!」を引き出しました。
現実の世界の苦しみから逃れるために仏教をする、でもそれによって新たな苦しみも出てくる。そういった、一種宙づりの状態が、逆にその人をたくましくして、生きる力になってくるのではないでしょうか。
■宙ぶらりんの状態が人を強くする
私は、一瞬どんな意味なのか理解できませんでしたが、でもすぐに直感的には理解したような気がしています。その内容を私の解釈も含まれていますが説明したいと思います。
つまり、救われるには「こうすればいい」という通り一片のやり方、確実なやり方があるわけではない、ということなのだと思います。
仏教をやればやったで、新たな苦しみも生まれる。現実の苦しみと、仏教を続けることでの苦しみがあるので、どちらの極に振れすぎても苦しみを伴うので、宙ぶらりんの状態が発生します。
しかし、その宙づりの状態が、清濁併せのむというようなタフさを生み出すのではないか、というのです。
私は、そこで言うタフさとは、2つの意味を含んでいるように感じました。
1つは現実を頑張り抜こうとするタフさです。自分自身を強める方向のタフさとでもいえるでしょうか。もう1つは、自分の力ではどうにもならない時に「まあこんなものか」と潔く諦められるタフさであるように感じます。これは自分自身を捨てるタフさ、といえるでしょう。
現実の目の前の問題や苦しみに対して頑張る力は、先のおばあさんの話でいえば、仏教を行うといった行動を生み出します。
一方で、あきらめる力は、仏教を行うことで新たに生まれる苦しみを許容し、どうしようもないことと受け入れることなのだと思います。
苦しい時は何かにすがりつきたいという気持ちが出ますが、実際にはそれだけで物事が解決するわけではなく、心が宙づりになってしまいます。
何をすればいいのか、右に行けばいいのか左に行けばいいのか、それがわからない状態のことです。しかし、この状態が続くことで、唯一の解決策はないということを理解してタフになっていくのだと思います。
実際に、そのおばあさんも、最終的にはまた仏教を続けたということなのです。
■自我が強くも弱くもある状態が安定なのだ
もう1つエピソードがあって、釈さんは地域のコミュニティ活動とか社会的な活動を行うのは、とても苦手なのだそうです。
なぜ苦手かというと、自分を主張する力が強く(自我が強いとか、自己意識が強いというような表現になるのでしょうか)、それが他人とのかかわりを煩わしいと感じる原因になってしまうからだ、ということのようです。
(こういったことをはっきり言えるというのも、すごいと思って聞いていました)
で、仏教では自我が強いほど悩みも強いので、自我を弱くしてとらわれないことが悩みや苦しみの開放にもつながる、ということだと話をしていました。
そんなことを言われると、私などは「これからの社会では、自分の考えをしっかりと主張できなければならないし、自分のキャリアも自分で切り開く必要があるので、自己主張できる力は重要なのではないか」と反論したくなるのです。
しかし、この話にも続きがあります。
自我が強い人は、他人に流されるとか、巻き込まれる、といったことが苦手だから苦しむのだ、ということだそうです。
自我の強さというのは、力強く生きるために必要なものではあるが、そればっかりだと他人とのかかわりあいの中で溶け込めなかったり、怒りがわいてきたりして苦しみが出てきます。
なので、自我が強ければ良いとか、弱ければ良い、という簡単なことではなく、自我が強くもあり、また弱くもある、というどっちつかずの宙づり状態が答えなのだ、ということを知れば、その人は強い自分も弱い自分もどちらの自分も人前で出せるようになり、変に苦しまずに済むのだ、ということのようです。
これは、先ほどのおばあさんの話と同じ結論です。
釈さんは、自分が自我が強いほうに振れているので、たまには弱いほうに振ってみて、他人に流されることをやってみよう、と考えて、周囲の意見を支持してNPOの立ち上げをされたようなのです。
釈さんがいう「宙づりの状態」が、いわゆる「中庸」なのではないでしょうか。
そしてこの「中庸」とは、平坦な穏やかな道、というわけではなく、常に強いほうに振れたり、弱いほうに振れたりしながら、しなやかに均衡し続ける状態のことをいうのではないかと思いました。
こうした動的な均衡状態こそが、全ての悩みに対する答えであるとすれば、確かに人間は清濁あわせのむタフさを身につけていけるのかもしれません。
最後に、冒頭で言っていた私の悩みではないのですが、心に引っ掛かっていたモヤモヤについてちょっとだけ触れたいと思います。
私もかなり自我が強く、自意識過剰気味に振れていることが多いのですが、周囲との人間関係が煩わしく感じることが確かにあります。気の合う仲間だけといたほうが楽と思ってしまい、新たなコミュニティに加わるのがおっくうに感じることがあります。
でもなぜそのように感じるかというと、新たなコミュニティのメンバが自分と気が合うのか、とか、そのコミュニティで自分をしっかりアピールできるのか、といったことを無意識に考えてしまうからなのではないかと思いました。
そういった場では自我を弱めて周囲のコミュニティに流されていいのだ、と考えたほうが、楽に接することができるし、変に自分をアピールせずに済むのだ、ということを理解しました。
たしかにそのように考えると変な気負いも不要になり、楽に生きられるような気がしています。
こうした動的な均衡を、ケース・バイ・ケースで選択できることこそが、心の成長なのであり、よりいっそうタフになった、ということなのでしょう。
最近はやりの言葉では「マインドフルネス」「ハートフルネス」ということでしょう。
蛇足ですが。。
ちなみに動的な均衡ですが、これは経済や人間そのものなど、幅広い世の中の事象に当てはまる概念だと思いました。経済は需要と供給のバランスで成立していますし、人間の細胞は絶えず古いものと新しいものが交換され均衡を保っています(生物学者の福岡伸一氏の著書「動的平衡」をご覧になってください)。
バランスを取る、と一言で言ってしまえばそれまでの話ですが、そんな簡単な一言で世の中が動いているような、そんな気もしました。
<筆者紹介>
佐藤 創(さとう そう)。合同会社クリエイティブファースト代表。経営コンサルタント。中小企業診断士、高度情報処理技術者、キャリアコンサルタント。
「変化を求め明日を企てる事業者様の良き参謀役」として、ビジョン実現に向け経営者と伴走しながら共に汗をかく、ハンズオンでの支援を身上とする。独自のビジネスモデル分析による経営改善手法が好評。
得意な支援ジャンルは、新規事業開発・事業戦略による売上拡大、IT導入・活用による生産性向上および販路開拓、金融支援(リスケ等)を伴う経営改善・事業再生。